やけに騒がしい音楽が耳につく。まるで、この世界を象徴するかのようにうるさく響いている。僕は頁を繰り、目を通す。
「ヘヴィー・メタル、か……」
僕は本を閉じ、上着を引っ掴んで、そのうるささから、世界から逃げだすように扉を開けた。
喧騒が広がり、音楽が大きくなる。静寂に身を委ねるには、一度喧騒に身を投げなければならない。なんだかとてつもない皮肉のような気がして、僕は思わず少し笑ってしまった。ここから図書館へは歩いてすぐだ。僕は歩きながら、耳に障る気の利かないBGMに敢えて耳を傾ける。……僕はこういう曲が嫌いだ。だからヘヴィー・メタル――《重金属系音楽》とは、なかなかな名前だと思う。まるでそのものだ。暖かみの感じられない、無機質で、無駄に派手なだけの音楽。何を求めているのだろうか……最近のラップ・ミュージック――直訳で《非難系音楽》によくある《短調回帰性》も。暗い世の中に慣れて、飽きもせずぐるぐる回っているような、そんなもののように思える。僕は、クラシック……《懐古主義》が好きなわけではないけれど――それでも、その方が良いように思うときもある。……曲が止む。終わりすら分からないまま。僕は隙を狙ったように、図書館の静寂に身を投げた。
中に入ると、案の定冷房が効き過ぎていて、少し肌寒かった。上着を着て、丁度良いくらいだ。棚を抜け、椅子に座り、本を広げる。この本は此処の本なのだ。もうすぐ読み終わるし、返すのにも丁度良いだろう。
賢者は言いました:
「君と私は未だ会ったことが無いが、
もし私の許へ訪れるなら、その色の服を着ておいでなさい。
私が君に話せることは何ひとつ無いが――
その色は私の印象に強く残るだろう」
……読み終わり、奥のカウンターで本を返したあと、席を立つ。棚に入り、少し見回す。一冊の本が目についたが、それきりの筈だった……筈だったのだ――普通なら。そう、その背表紙に何か書いてあったなら。つまり――
何も書いていなかったのだ。
……気になって手にとって、ぱらぱらとめくってみる。白紙。白紙。全てが白紙だったのだ。何も書いていない。妙だ。
……全てが白紙である以外の、妙な違和感。
そうだ。本は始めから読むのが普通なのだ。誰もがしているであろう、極めて普通の異常な行動。それを意識してしまっただけの話。
――「そう言えば、俺と君は実にお互いのタイミングで出逢うね」
――「そろそろ会うとは思っていたけどね」
一番始めの頁を捲る。白紙だった場所に、現れる文字。
映し出そう、君の心を。ただ頁を繰る度に、奥底の旅に行こう。
奈落になるも本を閉じるも、君次第……
***
誰が誰だかわからない、明暗すら存在しない、ごちゃ混ぜの物語。
君の世界に理想を求める愚かしい神の絶望。
整理してみよう。
死を決した人が居る。ひとりの、かつての恋人によってその篇は幕を閉じ、その人は伝える。連鎖は連鎖を呼び、伝えた相手はまた伝える。彼等は自身を名乗らず、役目を名乗る。『伝え人』と。
***
話を上位に移すなら、その物語は、それを書いた者の願望だった。
自分を救ってくれる人をただ求めて、且つ他者を救いたかった者の。
その人は、迫る他者の、親しい者の圧迫に堪えきれず、自身の内にもう一人の性格を作り上げた。仮に《彼女》と呼称するなら、それは救いであった。それと同時に、自分の狂気を思い起こさせるものであった。彼は数年の親しい者からの苦しみの結果、身を投げた。
***
さて、話を君自身に移そう。
君はこの話が虚構であることを知っている。
なぜなら
***
君自身が、「彼」の物語の創作主であり、「彼の物語」自身が更に君の心だからだ。
だが君の中にもう《彼女》は居ない。心の中であるが故に自身が定義したことは絶対だ。
そして君は、《彼女》が消えたと、もう必要ないと自ら望み、決め、そうしたからだ。
君にはもう、詩人の物語は必要ない。
この後に綴られた、つづき続ける輪舞曲と、『夢幻交錯世界』は未来の君には無い物語だ。なら、
***
君にこの本は必要ないだろう。まもなく君はこの本を
「はん。なんだってんだ、この本は」
――ああ、そうさ。あの輪舞する物語が『夢幻交錯世界』に繋がった。それは、《彼女》について表現する……知られる必要がなくなったからさ。認めてやるよ。
だがそれ故に、僕は全てを受けなければならない。それが他人のとばっちりであっても。
僕はただ決めただけさ。『《彼女》は居ない』とね。
それだけのことであるが故に、『《彼女》が居る』時にちょっとしたことで戻ってしまうかも知れない。……それでも。《彼女》に憑かれ、居るのに疲れてしまった時では、もはや居られない。何があろうと、僕は全てを受けなければならない。
喩え息すらできず、吐き気がするほど虐められ、蔑まれ、疎まれようと、僕はもう相手を蔑むことは出来ないのだ。
人は大抵護るために攻撃する。それは高貴な、あるいは低俗な自尊とか、他人とか、自分とか、あるいは社会的な何か。……《彼女》を消す……そこまでして、僕は何を護っているのだろうか。それは、《彼女》を護っていた頃の僕から見れば、酷くつまらないものかもしれないし、もしかすると《彼女》がつまらないものと取った僕が居るかもしれないのだ。
――どこかで反転が、塗り替えが起きたのだ。その時の僕にも《彼女》以上に護るものがあったのだろう。《彼女》を護らないことで護れる何か。
自分自身。それが一番分からないものだ。
「……さて」
棚に戻す。
全くもって不可思議な本だった。
……扉を抜け、
そしてまた僕は喧騒の中に身を投げた。
……閉じられた本の、最後の頁に、現れる文字列。
……閉じられた扉の、最後の刻に、映される言葉。
此れは、終局の幻想。
この「本」の物語も、「伝え人」と同じ、
身を投げた彼が《彼》として生まれ変わる前に綴った、最後の物語。
果たして何れが現実で、何れが幻想か?
何れが上位で、何れが下位か……
同じだ。
あの時と、まったく同じだ。
《彼女》は居ない、と決めたのに。居ない方があんたらのためにもいいのに。
どうしてまた《彼女》を僕に思い出させるような真似をするんだ。
あんたらは僕に判断を求めているようで脅迫している。
これなら《彼女》が居たときの方がよほど良いのに。
「……死ねよ、人間如きが」
人間は最悪だ。0か1かしかない。
なのに、何かしてほしいなら言えばいいのに、そうしない。
僕に《彼女》は居ない。もう居ないのだ。
「だめだ、」
《彼女》は居てはいけない。居たらまた同じだ。戻ってたまるか、と。
「そう決めているのに……」
どうして。どうしてどうしてどうしてどうして。
死んでしまえ。消えてしまえ。
「……気持ち悪い」
吐き気がする。滅多刺しにされた林檎のようだ。助け……
だめだ。《彼女》は居ない。もう居ないのだ。
もう居ないのに、どうして助けを求めてしまうんだ。なあ、どうしてだよ、
「…………!!」
寸でのところだった。危うく名前を呼んでしまうところだった。
助けてくれる人はもう居ない。
そう、もう居ない。
コノママ呼ンデシマッタラドンナニ楽カ。
ソウスレバ僕ハ生キラレル。《彼女》ノタメニ生キテイケル。
嗚呼モウ呼ンデシマオウ、呼ベバ楽ニ……
そんな過去の僕の残滓が、僕を締め付ける。
……そうか、僕は過去に生きている。
でも、前は過去にも未来にも、現在にも生きていなかった。
他人はなにも信じちゃいない。なら僕も、他人を信じてなどやるものか。
そう、このまま《彼女》を呼んでも、
もしかしたら別ノ生キ方ガ出来ルカモシレナイ。呼ンデシマエ。モウ呼ンデシマエ。
同じなのに、あの時と同じなのに、僕の瞳にはもう光はない。
誰かを護るために戦う強い光がない。護るべき者が居ないのだから。光は一度失われてしまえば、もう同じ光は取り戻せない。そうなってしまったら、また再び光が灯るまで、無駄とも思えるくらい足掻いて、藻掻いて死に生きるのだ。まして、例え自身を護る覚悟さえ無い僕には、再び光が灯ることなどないだろう。なら《彼女》ガ居ナイ意味ハナイ。
他人ノ所為デウマレ、他人ノ所為デ僕ニ消サレタ《彼女》ガ、居ナイ意味ハナイ……
光ナド無イママ、《彼女》ト一緒ニ生キテヤル。《彼女》ト居ル自分ノタメニ生キテヤル。
……あの時だってそうだ。いつもそうだ。信じていたのに裏切られる。信じていたいのに、僕が唯一信じられるのはいつも《彼女》だけだった。
李徴のように、信じ切って虎になれるなら倖いだろう。
喜助たちのように、信じて死ねたなら、
そして、例えそれでも悔やみきれずに、罰を受けられたなら倖いだろう。
でも、どちらもできない僕はどうすればいい? 何も変われない僕は。
決めてやる。モウ決メテヤル。また決めてやる。
居ルカ、居ないか。それだけだ。ただ頭の中で言うだけだ。
そう、《彼女》は……
「――――。」
「君は、見たくないのかね! 世界の終焉を!」
「少し興味があるが、わざわざそんな手間と命を懸けたいとは思わんね。ヘタしたら、あんた自身危うくなるぜ? 生死を超えた存在のレベルで」
《天使》はそう言われると、笑ってこう言った。
「……いざとなったら逃げる先があるさ、人間。世界はどんな形をしてるか知ってるだろ?」
現在最も有力な説では、球形とすると説明がつく、と言っている。
「ああ、考えてる通りだよ、人間。球だ。だが、それは飽くまで個々人の物語の波の集合に過ぎない――この世界がたまたまこの世界の安定形をとっているだけだ。立方体が安定であるという存在法則を持つ世界では立方体になる。尤も、仮に限定次元的自由度を持って世界を表現するなら、謂わば座標の近しい世界同士の性質は近いから、入るだけで存在が危ぶまれるような世界については考慮しない。ともかく、この世界では、《科学》、そして《魔術》。“その双方が在る”という指向性を、それぞれ個人の物語が持っているに過ぎない。その多人数に於ける同一の指向性を――」
「……《集合意識》と言うんだろう?」
「ご名答、人間。物語は影響し合うのさ。そしてその《集合意識》……同一の指向性にさせるものは、この世界に於いて《哲学》とか《宗教》とかと呼称される。ただ、同じ《哲学》・《宗教》が、指向性を統一する役割を持たない世界が在る。個々人が微妙に違う波形……物語を展開している世界が」
「それが《崩壊性の在る世界》か?」
「そうだ、人間。其処では世界という球は物語性という波にまでバラバラになり、ギリギリのところで存在している。そういう世界はな、人間。“世界が終焉を迎えた”という物語を以て再び安定するのだよ、何れな」
「其れが、“崩壊後の世界”ってか? インチキじゃねえか」
「仕方ないだろう、人間。例え実際に世界が崩壊したとしても――そこに在る者達はやはり共通に“世界が終焉を迎えた”という物語を持ってしまうのだから。だが――」
一息。
「“真に崩壊した世界”では、どうなるかを話しているのだ、人間」
少し話に惹かれたように返す。
「……どうなるんだい?」
《天使》は、待っていたとばかりに語る。
「個々の物語性は結合を失い、世界の隙間に只、在るだけになる。『世界ではない場所』は……『無い』訳ではない。《もの》は存在したがるのだ。単なる物語性を魔術を使い変化や一時的物体として限定・表現せずに放射すれば、それを受けた物体はそれから避けるように移動し、なお続ければ塀は結合を失い煉瓦に、それは土に、何れは存在しなくなる。つまるところ『世界ではない場所』は、むしろ、世界として成り立ち得ない物語が進行する場所。ちなみに、世界を移動する手段もこれに関係するのだよ、人間。其処に在る『自らと似た波長』に乗り、極めて微弱な存在になり、移動し、別の世界で独立し、謂わば《顕現》する。此の世界では、他者に対して行うそれは《召喚》だがな。……まあ良い、“真に崩壊した世界”は、《世界》ではなく《物語》だ。それも全く違う指向性を持った、な。では――」
「世界として存在する、同一の指向性を持った物語たちの結合を単に解いたら、果たしてどうなるのか? それはお楽しみだが、おそらく――」