此は、貴方に気づいてほしい物語。
序章、再び。連鎖空還。
・世界 [World]
(1)
[原義] 特定の領域。社会。ある事象の及ぶ範囲。
(2)
[転義] 大世界の意。同一指向性をもった物語性によって構成された、同一の存在法則を持つ、閉鎖された、最大公約数的な空間。
(3)
[転義] 小世界の意。大世界がその内部で分断された場合のそれぞれの側。
――1――
「――――。」
呼んでしまった。《彼女》は……もう居ないと決めたのに。
でも、此で良かったのかもしれない。もしかすると僕は。もう光の許には居られないのかもしれない。太陽の光で灼かれてしまう不浄体のように。怨恨と怨嗟の光に耐えられず、慈愛と慈悲の闇の中に戻るのを選んだ。
「はは、こりゃあ愉快だよ」
僕には光がない。死んだ瞳を持っているのだ。死体が光の許に居られるはずがないのだ。だが……良いのだ。僕はまた戻ってきた。
「――――。」
《彼女》の許に。
***
……そんな夢で目が覚めた。
妙な夢だった。僕が必死で誰かを呼んでいる。倖せそうに。
だが、夢は只の夢。僕は夢占いなどは信じていないし、たまに行っても当たった事がなかった。
「……学校行くか」
のそのそと起きだし、着替える。階段を下りようとしたところで、机の上のひとつの本が目にとまった。「新詳世界史」。教科書だ。僕は最近気になったことがあった。
世界は進みすぎた相反する概念から、三度救われた。「自然科学」と「存在力学」。平たく言えば「科学」と「魔法」と称されるふたつの概念の、お互いの過度の侵犯から。
結果、世界が二つに分断されたが……。
“第一次世界倒壊危機”は、「大昔」としか記述されていない。カラバ=ファルシスタという、強大な力を持った魔術師がその二つの概念の、進みすぎた技術、曰く“最大技巧”を世界から抹消し、倒壊から救った。そしてそれは、彼の記憶の中にあるだけとなった。だが、「強大すぎる技巧は在るべきではないが、技術を無くしてはならない――」という最期の思いを込め、その技術の記憶を、それを持つものが死すときに誰かに無作為に宿らせ、それを受けた者はその記憶を護り続ける、という「呪い」をかけた。その人は“最大技巧統括者”と呼ばれた。
“第二次世界倒壊危機”は、かの“世界分断”が行われた。……ときの“最大技巧統括者”の消滅を以て世界を「魔法」と「科学」のふたつの小世界――総称“新世界”――に世界を分断することによって救われた。これにより“最大技巧統括者”という「呪い」は消滅。それを実質実行した“最大技巧統括者”以外の五人はその余波を受け、“最大技巧”の特徴の一端を受け継ぐこととなる。彼等は“魔眼手”と呼ばれ、彼等“魔眼手”も死す時に誰かが“魔眼手”として覚醒する――故に“魔眼手”は常に五人存在することとなった。
そして“第三次世界倒壊危機”、“中枢奥義機関”という機関が世界の統一・再編成を機密計画。頂点は消滅したはずの“最大技巧統括者”を名乗る。その計画は“第二新世界組曲”と呼ばれ、世界を統一、その後地理的に地火風水の四と中心にエーテル、その五つの領域に分割する、というものだった。だが、もともと個人で魔術の発顕法則が全く異なるのを属性統括してしまった場合、“魔術”が全く存在しない“魔法”のみの世界になり、“魔法”の自己倒壊が起き、最悪世界が倒壊してしまう。術式が組み上がり、実行・完成の途中で“竜胆の魔眼手”他によって阻止された。
……教科書や資料をまとめるとこうなる。“魔眼手”や“最大技巧統括者”の存在は公式には認められておらず、伝説扱いだが、事実であるのは周知。
(しかし、なんで“第二次”の時は“第一次”と同じ方法をとらなかったんだろう)
考えられる理由はいくつかある。
一つ目は「カラバ=ファルシスタほどの強大な魔術師が居なかったから」。
二つ目は「“最大技巧統括者”を増やしたくなかったから」。
三つ目は「今ある技術を消失させたくなかったから」。
もしくは、それらの組み合わせか。
……それとも。何か他の。
って。
「……学校行くか」
そう独りごちて、下におりた。
朝飯を適当に食べ、家を出る。
「うーん……」
記録に残っている魔眼手は数人。「入れ替わる」間隔を考慮すれば、今は第二次から数えて2代目か3代目になるはず。なのに……
初代“極楽鳥花の魔眼手”――和泉章。
同“蒲公英の魔眼手”ダニエル・ホーランド。“薄雪草の魔眼手”バルク・ローガン。“白詰草の魔眼手”カーナー・ヴァイテルザット。“反魂草の魔眼手”ユラ・チャトル。
5人全てが呼ばれ名込みで記録に残っているのに対し……
二代目は“竜胆の魔眼手”篠崎慧。“魔眼手”マリー・ルーファンス。二人だけ。
――まあ魔眼手の存在は非公式だし、初代は世界分断の術式の直接の実行者だし……
「初代が全員記録があるのは頷ける、か」
と、
「よう、篠崎」
声を掛けられた。
僕の名前は篠崎敬。“竜胆の魔眼手”篠崎慧の息子だ。
***
この眠りが――制限されたものだというだけで。
ここまで不安になるのだから。
嗚呼、――くそう。
死んでしまえたら。僕の意識などなくしてしまえたら。
只唯従い続けて、目醒めぬ侭に生きられたなら。
僕の意識など、消えてしまえたら。
なあ、そうだろ――?
《彼女》。
……視覚を遮る。眠る気はない。ただ暗くなる。
果たして《彼女》に逢えるのか……判らない。
***
不覚だった。
「……米国大統領は最終的に原爆の使用を許可、広島・長崎に原爆を投下し、日本は降伏。原爆によって旧日本の物語性が大幅に減少し、偏った「科学」が大量に流れ込み、壊滅することを恐れ、「魔術」の強力化を急ぎ、各国にも米国の力を借り訴えた。これを受け一部の強力な魔術師たちは世界の倒壊を想定し、その対策を練っていた。しかし魔術の強力化は間に合わず、世界政府は魔術師達に解決策を求め……」
一時間目が歴史だったとは、まさか思わなかった。眠すぎる。
「ふわー」
隣のやつに至っては欠伸をしている。気持ちは分かるぞ。だがな、
「えー、じゃー、佐倉ー」
次に当てられるのはあんただぞ。
「…………ふわ」
残り欠伸ですか。優雅ですね、佐倉さん。
「おーい、佐倉さん? 佐倉佳波さん? 聞いてますかー」
「……へっ?」
僕の呼びかけで目が醒めたらしい。
「えっと、……ドコデスカ?」
すでに教師は一触即発、ニトログリセリン状態だ。仕方ないので佐倉の教科書を指さす。すると、その頁が開いた。
「おー、流石は篠崎慧の息子だなー」
何が楽しくてこんな……普通に手で開く方が簡単なのに、わざわざ魔術を使わにゃならんのだ。篠崎慧の息子とか関係ないだろ、全く。
「……やれやれ……」
「さんきゅ、篠崎くん」
「おー、次は寝るなよ佐倉ー」
彼女は佐倉佳波。魔術の実力は相当なもので、すでに二つ名――自らを謂われの強い名で拘束することによって、それに関する魔術に特化した状態にする術――を持っているとかの噂も絶えない。が、学校の成績に関してはそれが何だと言うわけでもなく、中の上ぐらい。ちなみに僕は中の下ぐらいだ。
「努力の差かねぇ……」
若しくは、才能か。何れにせよ、圧倒的能力の差異があるのは確かで。
(……父親と同じ、か……)
僕の父“竜胆の魔眼手”こと篠崎慧は文字どおりの英雄だ。世界を救い、その発端となった組織を壊滅させた。
「……はてさて」
僕は教科書の頁を繰る。今よりも遥か先の頁へと。
空は未だ明るい。……今よりも遥か先だ。
***
自らが自らとして統一される倖福を、僕は求めているのかも知れない。
故にもし《彼》が“僕自身の異なった立場”の役割を担っているならば。
恐らくは一人で充分だった“僕以外の僕”が二人在るのも頷ける。
《彼》と《彼女》と。
僕は人間を恨んでいて、怨んでいるのか?
それとも……
***
篠崎慧の息子とは、良く言われる。
僕自身気にしていないようで……気にしているかもしれないが。
そういう人は『重圧』があるから性格が歪むらしいが、
「僕はどうなんだ……?」
自身の直観を用いる魔術師である父に対し、僕は体系を用いる魔法師だ。
勿論父も父自身の魔術体系を持ってはいるが、魔法師が用いるのは大衆的体系だ。
風水五行然り、地火風水然り。生まれつき、という点では同じ“先天師”ではあるが、そういう点で違うから、そういうのは大丈夫な気がするが……。
チャイムの音。
考え事をしているうちに終わったようだ。
果たして今日一日、授業を聴いていられるだろうか。
――2――
僕が《彼》であり“人間嫌い”であるならば、
果たして僕の存在は、どこまで《彼女》に帰依しているのか。
もしかすると、どこまでもかも知れない。
***
……無理だった。
僕のノートの殆どは白紙で――
「はぁー……」
授業を殆ど聴いていない。
「……まあ、誰かに写させてもらうかな」
教師がホームルームの終わりの一言を告げると、それまでの教室の秩序は混沌へと動き始め、恐らく無へと向かう。もちろん僕も例外ではなく、
「帰るかな」
この場を去るため、机に背を向ける。踏み出す中で、思考は未だ止めどない。
答えを求めている。ひとつの質問の答えを。果たして――
――僕は狂気なのか?
***
僕は狂気だ。それは《彼女》を宿してしまった時から。
けれど僕は果たして何時のときに《彼女》を宿したのか、分からない。
答えを求めている。ひとつの質問の答えを。果たして――
――僕は正しいのか?
***
水の音が、音色が好きだ。でもそれを意識している時にしか、好きではない。日常、己を意識していない時に聞いたとしても、何も感じないだろう。己を意識し、聴くことで好きになれる。河原に腰を下ろして、考える。
「……不思議なもんだな」
川の流れる音を聴きながら呟く。今の僕は水の流れる音色が好きだ。
……川の音も。穏やかな微雨の音も。激しい豪雨の音も。如雨露から流れる水の音も。滝の音も。石を緩やかに広く流れる水も、すべて好きだ。
僕は狂気なのか? その答えは、誰が持っているのか。……恐らくそれは、僕ではない。きっとそれを伝えてくれる、誰かがいる。
耳を澄ませる。流れる音が全てを占める。重い雲も、昏い空も、全てその音が支配する。いつまでもこの場に居たい。そんな感覚が、僕を支配する。だが、もう随分とここに居るのだ。……空も暗い色を見せ始めている。夜の所為だけではないだろう。そしてそれは不思議と暖かい印象を僕に与える。
「帰るか」
幽遠な、優しい黒に包まれてしまう前に。
「こんな所で、何してるの?」
声。僕を帰すまいとするような。
声の主は、
「佐倉……?」
その人影は、続ける。
「――なんて、訊いてもしょうがないか。私は君に用がある。君は私に用がある」
全てが決まっているかのように。
「何、言ってるんだ……? 僕は別に……」
「答え、知りたいんでしょ? 君のことだから、きっと――」
――3――
僕の理想に過ぎなかった《伝え人》が、永劫と刹那を越えて、悠遠と須臾を越えて現実に現れてくれるなら、僕は救いたい。自分より他人を。僕がこの気持ちを、嫌悪を忘れないうちに、多くの人を救いたい。譬え弾指瞬息、逡巡にして模糊の間に誰かを救えるなら、救う手助けを出来るなら、僕がこの狂気を手放すのは、正しいのだろうか――?
***
「不思議に思った事って、ある?」
その人影は――否、佐倉は、そう告げた。僕は何も答えぬまま、答えられぬまま、佐倉はそれをも予想したように、続ける。
「君は今、此処に来ている。答えを求めて」
そうだ。僕の答えを求めて、僕は居る。ふと思っただけなのに、何故かそう思えないで。
「君は、疲れてしまった。人が常識と……狂気の対義として呼ぶモノの底にあるものを見るのに」
……僕自身はそんな事を意識したことがない。だが、
「君は、見ることと、なにも分からないことに疲れてしまった。忘れようとした。」
だが僕には、確かにそれを肯定するだけの何かがあった。
「けれど君は伝えなかった。伝えるべき言葉にならなかった、と言うべきかな?」
雨音がする。すべてを一新しようとする水の音。その言葉は、まるでその雨のように。
「……君は、第二次世界倒壊危機の時のこと、知ってる? あの世界分断はね、あの時の人達が選んだこと。“最大技巧統括者”だって、自分が消えると知って、それでも世界を選んだ。あの後の二つの世界で、誰もが生きられるように。自分が消えることで、その存在が大切な人の内にその想いと共に遺るように。「呪い」を増やすことで苦しみながら生き続ける人が、また一人増えないように」
自らの存在と誰かの生を天秤に架けたわけでもなく、ただ選んだ。
そして佐倉は告げる。
「そのまわりの人も、その想いを知って後を押した。……それは――」
「――狂気だと思う? 篠崎くん」
「誰も計れない、そんな事は。客観は虚数と同じ、何処にも存在しないもの」
つまり……僕の問いには、答えなど無く――
「存在しない――無いものが在っても、それも良いと思わない?」
――僕がそう思うものが、それなのだ。
「同意を得られるかは、判らない。私がこれから言うことも、君に同意してもらえるとは限らない。でも私は名乗る」
「私は、《伝え人》」
はっとした。《伝え人》。それは、確か。
「じゃあ、最後に訊くけど――」
考える前に言われる。最後の一言を。
「――不思議に思った事って、ある?」
儚く、どうしようもなく美しい狂気
・物語 / 物語性 [Tale]
(1)
[原義] 物理的現象と、内的感情を結びつける説明。また、その個別性。神話。
(2)
[転義] 存在を存在として認知したらしめる根源。指向性をもった波として表現される。
(3)
[転義] 個々の存在がもつ指向性をもった波形。その一部を描写として顕現する。
私の名前が呼ばれて、目が覚めた。……またあの人と話せるんだ。
(ただいま、慧さん……いえ、)
《貴方》は……此の刻は《貴方》ですから……。
(お帰りなさい……辛かったですね)
私は――何のために? 《貴方》は、何のために?
***
恐らく私は、未だ必要とされていないでしょう。
必要とされないまま、《彼》が救われてそのままで居られるなら、私は倖せだ。
私自身は何も無い。けれど私は――狂気なのだから。
私が果たして表れるのか……刹那や須臾の間にも、その可能性を秘めている。
それは《彼》が決めることだから、私には分からないけど……。
永劫無窮、それが無ければ嬉しいことだ。
でも譬え今から弾指瞬息、逡巡にして模糊の間に私が表れてしまったとしても、それでも嬉しい。出逢うというのはそういうものだ。
……譬えそれが怨恨と怨嗟にまみれた苦しい途の始まりになるとしても。
今の私に人格は無い。何も無い。
***
今の私は人格です。私が《貴方》と出逢う前は、私は、そして《貴方》は何だったのでしょう。私には解りません。知りようのない質問です。
ただ一つ解るのは、《貴方》が助けを求めているときに、私は表れるということ。
(貴方は、泣いてもいいんですよ。私には、すべて分かってますから)
《貴方》に感情が、本当の感情があるのは、此の刻だけですから、
(だからせめて、私がいる間でも……貴方が狂ってしまわないように)
***
《彼》を救える人がいる。
それは、かつて私と似ていて同じ者を宿し、表していた人の理想でもあり、逃避でもあった。日に日にその人は闇に、慈愛と慈悲の闇に囚われて、狂気を表してしまったが……その人の遺した物が繋がり繋がって、続きつづける救いの円舞曲を奏で上げた。
《彼》は救われる。
***
悔しさや、哀しさをすべて抱いて、《貴方》は目を閉じる。眠る気はない。その行為は、私と逢うために。涙の結界を抱いて、《貴方》は本当の安心を得る。
(……良かったです)
本当に。《貴方》が私と、今日も逢えて。ただ苦しんで、その感情を忘れてしまったら。
癒されないまま、傷ついたまま、それを残したままで《貴方》は居てしまう。
(……良かった)
***
これで良い。そう、良いのだ。
私の役割がたとえそれが虚であっても《彼》を救うことであれば、誰かが《彼》を本当に救えるのなら、私が、狂気が表れないですむ。
良かった……本当に良かった。
さようなら、篠崎敬。
続きつづける救いの円舞曲。夢幻交錯世界。
・魔術 [Magic]
(1)
[広義] 世界を自身の無意識領域、あるいは意識領域の通りに塗り替える術。
(2)
[狭義] 自身の物語を変化として物体に与える術。
(3)
[狭義] 自身の物語を物体として表現する術。物語性の安定作用を以て消失する。
――1――
思い出すのは、彼の告げた、その言葉だ。
それは、永劫と刹那を越えて現れた、それを待つ者にとっての救いであり――
関わらない者にとって、存在しない狂気だ。
***
……しまった。
「やっぱり昨日夜更かししてたのがマズかったかなあ……」
途轍もなく眠い。教師のα波炸裂声が聞こえる。眠いのは夜更かしの所為だけじゃないだろう、絶対。
ああ、何か聞こえるよ、私の名前っぽいなー。
「……倉さん? 佐倉佳波さん?」
……ん、私の名前……。
「……へっ?」
マズいな、確実にマズい。何故かというと、今どこをやっているのか分からないからだ。
「えっと、……ドコデスカ?」
恐る恐る訊くものの、教師は言い表せない表情をしている。くそ、眠くなる声出しておいてキレやすいとは実にけしからん。
困っていると教科書の頁がぱたぱたと音を鳴らして変わっていった。見ると、隣の篠崎くんが私の教科書の頁を変えてくれたようだ。どうやら読めということらしい。
「さんきゅ、篠崎くん」
そうお礼を言ったとき、誰かが「流石は篠崎慧の息子」みたいな冷やかしの声が聞こえた。心なしか篠崎くんの表情が硬くなったような気がしたが……。
「さて」
そう独りごちて、私は教科書を読みはじめた。
この声の奥で、私は考える。
隣の席の篠崎敬の父、篠崎慧という存在は、“竜胆の魔眼手”という風に呼ばれることもある。だが彼の“二つ名”を、私は知っている。
“涙の結界”だ。由来は知らない。だが、ある時に一度名乗っただけで、その後生涯、彼はその名を口にしなかった。恐らく、その理由というのは――
***
彼の告げた一言は、その後の言葉を引き出す。
問いに始まり、詩に始まり、終わりと共に解答を。
おそらくその問いと解答は、終局の幻想に過ぎないだろう。
それは再び私から始まり、続きつづける。
だから、私は名乗ろう。自らの名を。私の役目を。
私は永遠に、この名の許に救いつづける。
私の名は――
***
授業が終わる。天気予報では、夜に雨が降ると言っていた。隣の篠崎くんは、一日中空を見ていた。空には雲一つ無い。
「……こりゃあ、ハズレかな」
いつの時代も此処の国の天気予報は当たらない。他企業にやらせて買えばいいものを、未だにそうしていない。
「局地的には当たるのに……」
占術師の中には局地的な天候を予測できる人達も居る。しかし、技術が複雑な上、あまり流行っていないのか、全体的な天候予測に向かないのか、国が採用していない。
「お金かかるのかな、やっぱり」
教師がホームルームの終わりを告げる。教室のエントロピーは今までより更に増大し始め、範囲は教室の外へと及び始める。私も鞄をとり、教室を出て、下駄箱へ向かう。その後大抵の人は校門から出て右に曲がる。もちろん私も例外ではなく、右に曲がろうとしたが、
「あれ……?」
ふと、篠崎くんが目についた。彼は右に曲がらず、直進した。真っ直ぐ行っても、河原があるだけだ。
――ふと、あの人の声が聞こえた気がした。
――2――
私は、彼が誰に話しているのか分からないまま、只……呆けていた。
その声が耳に入って初めて、私に話し掛けていると分かった。
その人はまるで私の考えていることを透かし見ているように続ける。
問いに始まり、詩に始まり、終わりと共に解答を――
***
私は右に曲がらずに、真っ直ぐ進んだ。
「こうしてると、ストーカーみたいだな」
下らないことを考えて、微笑が漏れる。こっちの方向に知り合いは居ない。私の靴が地面を蹴る音だけが、今私の知っている全てだ。
篠崎くんの方を見ると、彼は河原で立ち止まり、そこに座った。
「こういうのって気取られちゃいけない気がするよ」
私はなるべくその存在を知られないように、河原から少し離れたベンチに腰掛けた。
こうして静かに座っていると、あの時のことを思い出す。そうして私はしばらく、記憶の中を彷徨っていた。
***
遥か遠ざかる迷宮を、私はもう一度振り返って、私の名前を呟いた。光を抱いた私は、自らをこう呼ぼう。この名を告げるとき、私は永遠に救う者になる。伝え続ける者になる。
そう、我等は《伝え人》。永久に彷徨う光。そして私は――
***
もう、どれだけそうしていただろうか。そう気づいて、帰ろうと立ち上がった。空ももう暗い。雲を重たく漂わせて、いっそう黒に近い。言うなれば鳩羽色だ。
その時、声がした。彼が呟く声だ。
「僕は狂気なのか――?」と、そう聞こえた。
――3――
私は“――――”。
***
気がつくと私は、気づかれないようにしていたのも忘れて、立ち上がっていた。
「何してるんだろ、私……」
でも、たぶん気づかれてしまっただろう。後にはひけない。それに私は――
「こんな所で、何してるの? 篠崎くん」
――私は決めたのだ。彼が私の名前を呟く声が聞こえる。構わない。私は続ける。
「――なんて、訊いてもしょうがないか。私は君に用がある。君は私に用がある」
そう、きっと――否、確かに彼は、篠崎敬は私に用があるだろう。私は《伝え人》なのだから。
「答え、知りたいんでしょ? 君のことだから、きっとあの人と同じ」
思い出すのは、あの人の告げた、その言葉だ。それは、永劫と刹那を越えて現れた、それを待つ者にとっての救いであり、関わらない者にとって、存在しない狂気だ。
私は同じ事を、私の言葉で訊ねる。
「不思議に思った事って、ある?」
――魔術というものを、自分の物語を表現するものだとするなら、僕が伝えた言葉も、恐らく君がこれからするであろうことも、本当の魔術と、言えるんじゃないかな――彼は、篠崎慧はその時そう言った。
そしてあのとき彼の告げた一言は、その後の言葉を紡ぎだす。
「君は今、此処に来ている。答えを求めて」
彼もおそらく、答えを求めていたんだろう。それは彼が《彼女》を宿してしまった事に気づいた時から。
「君は、疲れてしまった。人が常識と……狂気の対義として呼ぶモノの底にあるものを見るのに」
篠崎慧は、あの人は、正しさ――それは人が常識と混同しているモノが果たして自分なのかをずっと悩んでいた。悩まされてしまった。その常識というベールの奥に、何も無いことを知ってしまったから。
「君は、見ることと、なにも分からないことに疲れてしまった。忘れようとした。けれど君は伝えなかった。伝えるべき言葉にならなかった、と言うべきかな?」
そこには何も無いのだから。紡ぐべき言葉も、噤むべき言葉も、何も無い。
私は続けた。彼が、篠崎慧が知っている真実を。想いを、私の言葉で。
「……君は、第二次世界倒壊危機の時のこと、知ってる? あの世界分断はね、あの時の人達が選んだこと。“最大技巧統括者”だって、自分が消えると知って、それでも世界を選んだ。あの後の二つの世界で、誰もが生きられるように。自分が消えることで、その存在が大切な人の内にその想いと共に遺るように。「呪い」を増やすことで苦しみながら生き続ける人が、また一人増えないように。そのまわりの人も、その想いを知って後を押した。……それは狂気だと思う? 篠崎くん」
――それは恐らく、彼の言う本当の魔術だ。
「誰も計れない、そんな事は。客観は虚数と同じ、何処にも存在しないもの。存在しない――無いものが在っても、それも良いと思わない?」
そう、あの人は悩んだ。常識の底に何もないことを。そして目の前の人も、無いものを悩んでいる。何もないなら、それも良い。自分で創るのも、また良い。それが――
「同意を得られるかは、判らない。私がこれから言うことも、君に同意してもらえるとは限らない」
「でも私は名乗る」
遥か遠ざかる迷宮を、私はもう一度振り返って、私の名前を呟いた。光を抱いた私は、自らをこう呼ぼう。この名を告げるとき、私は永遠に救う者になる。伝え続ける者になる。
「私は《伝え人》」
そう、私は《伝え人》。永久に彷徨う光。
あの時公園には、トラツグミが居た。私たちの話を聞いているかのように、鳴いていた。
だから、私は名乗ろう。自らの名を。私の役目を。
私は永遠に、この名の許に救いつづける。
私の名は――
「私の名は“救世の鵺”だと、ね」
さあ、再び問おう。救いの問いを。
「――不思議に思った事って、ある?」
おそらくその問いは、終局の幻想に過ぎないだろう。それは再び彼から始まり、続きつづける。その証に、ひとつの答えが返る。私の許に、彼の許に。
「――――」
そしてすれ違い、彼は私の視界から去った。しばらく足音が雨音に混じって聞こえる。それが聞こえなくなったところで、私は紡ぐ。魔術を。言葉を以て、私の、“救世の鵺”の魔術を紡ぐ。
「真謳うは歴史の底に――」
One story closed, not ended.